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貧しいものは幸いです
長浜教会へ来てからの9ヶ月間、私はルカの福音書から一連で説教をしました。私の性格の弱点ですが、長い間同じことをするのは嫌ですので、今度から別の個所からしようと思いました。そして高橋先生も最近ルカからのシリーズをし始めたので、やっと決心しました。これから英語礼拝でやっている預言者のシリーズがいいかなと思いました。しかし、やっぱりもう一回ルカに戻ってみようと思って、次の個所のルカ6章20−21節を読みました。「貧しいものは幸いです。神の国はあなた方のものだから。いま飢えているものは幸いです。やがてあなた方は満ち足りるから。今泣くものは幸いですやがてあなた方は笑うから。」
イエス様は貧しい人、飢えている人、泣いている人を祝福されます。神様の国はそんな人の物になるからだと言いました。マタイの福音書によると、「幸いなるかな、心の貧しきもの。」私の床の間に掛けているけんじさんから貰った掛け軸にそう書かれています。しかしルカさんは「心の」を抜いて、本当にお金の貧しい人を指しています。お金がない人、食べ物がない人、希望がない人に神様の国が与えられました。神様は特にこう言う人々を祝福されます。
「特に」と言うのはおかしいと思うかもしれません。神様は皆平等に愛してくださいませんか?確かにそうです。しかし、もし二人兄弟で兄が弟をいじめるとき、両親が弟を助けるために兄を止めさせると思います。それは弟の方を兄より愛することではなく、両方を愛するからこそ弱い者を強い者から守るということです。神様は同じように、強い人が弱い人を圧迫するとき、弱い側を応援します。神様の応援宣言を伝える人は聖書で預言者と呼ばれています。
皆さんは「預言者」という単語を聞いたらどう思いますか?未来のことを明かす人だという理解があります。そういうこともあると思います。そして、預言者が神様の御言葉を伝える人だと言う考えもあります。今日の個所はアモスという預言者の預言からです。アモス3章で、「まことに、神である主は、そのはかりごとを、自分のしもべ、預言者たちにしめさないでは何事もなさらない」と書かれています。しかし、もう一つの意味を考えたいと思います。
この世界のほとんどの宗教は人間がどうやって神様に近づけるか、という話しです。もし正しく祈ったら、正しいことをしたら、そして正しくないことをしなかったら、神様に近づけるということです。しかし聖書では全く逆です。聖書は人間に近づきたい神様の話しです。
最初では、神様はアダムとエバと関係を持ちます。しかしアダムとエバが神様を捨てて、自分の道を選びました。だから神様はもう一度人間に手を伸べました。まずノアへ、そしてアブラハムヘ、そしてイサクへ、そしてヤコブへ。そしてモーセの時代になると、神様はやっと自分が関係を持てる民を集つめました。そして神様は「私はあなた方に忠実になりたい。あなた方も私に忠実になりませんか?」と言いました。神様と神様の民族はお互い忠実になるという誓願を立てました。神様と自分の民の結婚誓約みたいです。
この誓約の中心にいくつかの戒めがあります。そして中心の戒めの周りに、その中心である価値観を説明する誓約の内容があります。この中心の戒めは皆さんご存知でしょうか?最近までここで学んだと思います。いくつかあると皆さんが知っています、ね?「何戒」でしょうか?「十戒」ですね?そうではありません。実は「十一戒」があります。一番目は「私の他に他の神々をあってはならない」ですね?しかしその一戒の前に、ゼロ戒があります。「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」十戒の初めでは、神様の方がもう既にしてくださったこと、神様の方がもう既に自分の民をどうやって愛してくださったか、どう既にやって守ってくださったかの説明があります。そして神様がもう既にしてくださったことの故に、神様は一番いい生き方を教えています。人を殺してはならい。人を騙してはならない。姦淫してはならない。
これは結婚誓約のようなものだと先に言いました。得点表や通信簿ではありません。二人は結婚するとき、いつも、どの状況でも、愛し合って、仕え合うことを約束します。健康の時も、病の時も、豊かな時も、乏しき時も。しかし、現実では、それを本当に出来る人はいないと思います。どんな素晴らしい夫か、どんな忍耐強い妻にも、元気のない時や疲れた時に怒る時があって、その約束通りに愛することが出来ないときもあると思います。しかし、そうならば、結婚はお終いということではありません。「まあ、約束を破ったので、それでバイバイ」と言いません。いいえ、結婚誓約はお互いに歩みたい生活の希望を表現しています。そして問題の時、一緒に話し合います。そして自分で解決が出来ない問題だったら、時々第三者の結婚生活相談相手を招いて一緒に相談します。
神様とイスラエルの関係は同じようなことです。その関係のあるべき形の希望を契約で述べました。でも、神様はいつも約束を守りますが、イスラエルの方はそんなに忠実ではありませんでした。気を散らす時もあり、外国の神々に仕えてしまった時もありました。うまく行かなかった場合もありました。だから神様は第三者の結婚生活相談相手を招きました。その第三者の役割はイスラエルが迷った道から導き、神様に戻るように説得するのでした。
その第三者は預言者でした。預言者の仕事は未来のことを明かすよりも、神様の言葉を伝えるよりも、結婚生活相談相手の仕事です。イスラエルの人と神様の間に仲介をして、誓約を思い出されて、どうやって神様と一緒に生ければいいかを教える仕事です。場合によって違う方法が必要です。厳しくして、戻らないとどんな問題が起こるかを述べる時もあります。優しく、求愛する時もあります。しかしいつも神様の民にどう生きればいいのかを教えます。アモスとヨナを例外として、全ての預言者は神様の民に向かいました。神様の民ではない人にどう生きればいいのを教えませんでした。
私たちクリスチャンも神様との契約関係を持ています。私たちは神様を愛し仕えます。そして神様は私たちを愛して救ってくだっています。その関係があるから、期待された行動があります。だからもし私がよく怒るのを兄弟姉妹である皆が気がついたら、皆さんが私に注意をする権利があります。「サイモンさん、よく怒っているね?なんか問題があるかもしれないな」と私に言ってもいいですよ。じつは、言ってくださったら方がいいです。又は「サイモンさんのお金の使い方は神様の栄光を現しています?」と私に言う権利があります。私は神様との関係を守りたいし、その関係を強くしたいので、問題あれば早く分かって直すほうがいいと思うので、私を注意に権利があります。もちろん愛を持って、優しく言ってくださるほうがいい。しかしその神様との関係を持っていない人にいう権利がないと思います。神様の預言者は神様の民にもう既に知っているはずのよい生き方を思い出させてくれます。
アモスは例外だと言いました。色々な面でアモスは例外でした。ほとんどの預言者はプロでした。祭司職で、神殿で神様の奉仕をしながら神様の御言葉を聞きました。しかし神様はプロだけにおっしゃるわけではありません。条件は聞くことだけです。アモスは野原で羊飼いをやっていました。そこで神様は彼を捕まえて、「私の言葉を聞いてもらいますか?」といいました。神様の言葉を聞く人は牧師や宣教師だけではありません。実は時々プロの人たちは邪魔になることもあります。そのプロの人たちは神様を無視することもあります。
アモス7章では、アモスはアマツヤという祭司とぶつかります。アマツヤはアモスが伝えるメセッジを聞きたくなかったので、追い出そうとしました。そしてアモスは「私は預言者ではなく、預言者の仲間でもはありません。」神様の言葉を聞いただけです。預言者は大変難しい仕事があります。預言者は神様と神様の民との関係がうまく行かない時遣われています。だから、その関係はもう既にうまく行っていないので、人々は預言者に耳を傾けない可能性は高いのです。
私たちの人生にも同じ危険があると思います。ほとんど神様に従わない時、自分が従っていないことをよく知っています。自分がしている不信仰のことをよく分かっています。そして従わない、神様をふって自分の道を選ぶ時、神様や人から隠す気があります。従わないということを教えられたくないからです。私自身はよく分かっています。二年間神様から逃げて、教会から逃げ出していました。自分の生活は正しくないと分かっていました。他の人から聞きたくなかったから、逃げました。神様から逃げようとするとき、神様ご自身が問題だと思ってしまうことがあると思います。しかし神様が解決です。そのゼロ番目の戒めを思い出してください。神様があなたを愛しているから、守っているから、契約の関係を持ちたいと願っておられるから、一番よい生き方を教えています。
さて、アモスの預言を読みましょう。一章二章では、イスラエルの周りの国々について預言をしています。シリヤはギルアデに侵入した時虐待をしたので、神様はシリヤを罰します。パレスチナもレバノンも侵入して、人を奴隷として売れたので、神様は罰します。
先に、預言者は神様の民に神様との契約を思い出させる役割があると言いました。この預言はそんなことではありません。神様は定義を約束しています。神様は「この国々が大変酷いことをしたので、罰を逃れることは出来ません」と言いました。その国の「罪」ということを書いていますが、ヘブライ語で「罪」よりも、「戦争犯罪」の意味です。「罪」というのは神様と自分の民の間の問題を表現する用語ですが、ヘブライ語で違う単語です。これは国が犯した戦争犯罪のことです。
神様は本当に驚くことをされました。ここでは、神様は他の国を使って、イスラエルに恥をかかせようとしておられます。神様のことを知らない、関係を持っていない国のことを言います。かれらは大変酷いことをやりました。イスラエル人はうなづきながら聞いていたかもしれません。自分は安心でしょうね?神様との契約があるからです。神様を知っているからです。知っているはずですねと思っていました。
しかしそうではない、と神様がおっしゃっています。他の国の酷い戦争犯罪を非難した後、突然、イスラエルについての預言があります。イスラエルがこんな酷いことをした国と少しも変わらないと言いました。実は、9章7節ではっきり言いました。「お前たちはエシオピア人と変わらない。私はあなたがたをエジプトから解放しました。しかし私はペリシテ人もアラム人も奴隷から解放しました。あなた方は契約の民族ですが、他の民族より偉い人ではありません」と言いました。
イスラエル人も私たちも、契約の民族になったのは神様の恵みだけでした。私たちが素晴らしい人のせいではないし、行儀がいいということもありませんでした。神様は全ての歴史に渡って自分の民と呼ばれる民族を捜したからだけであります。だからクリスチャンには自慢することはありません。「私たちは神様に選ばれた」と他の人よりえらく思うのは出来ません。私たちが特別だから選ばれた訳ではありませんでした。神様が特別であるからでした。
神様はイスラエル人を選んで、今うまくやっていないと警告しています。何をうまくやっていませんか?2章6節をもう一回読んで見ましょう。最初は貧しい人と正直な人を奴隷として売りました。7節では、貧しい人を圧迫します。不公平なことをします。そして次の個所では「父と子が同じ女の所に通って」と書かれています。しかし「女」という単語は「女奴隷」で使われた単語です。
次は「質に取った着物の上に横たわり」。もう一度貧しい人に対しての態度のことでした。もし一人のイスラエル人は他のイスラエル人に借金があったら、手付けを払いました。これはお金ではなくて、自分の上着でした。しかしお布団を持っていない貧しい人はイスラエルの寒い夜に負けないために、暖かい上着が必要でした。だから出エジプト記で法則がありました。夜になるまでに、手付けとして取り上げた上着を貧しい人に返さなければなりませんでした。アモスの時代のイスラエル人は実はそうしませんでした。
アモスの預言のパターンが分かりますか?神様の忠告は貧しい人への圧迫についてでした。又は貧しい人に正義を行わなかったことでした。イスラエルは大変酷い戦争犯罪を犯した国と変わらなかった理由は貧しい人への態度が悪かったのでした。
アモス5章にも、神様はまだイスラエルを非難します。そこでも、貧しい人を圧迫することと正義を行わないことを非難しました。アモスだけではなく、聖書の預言者の中に百六十回「貧しい」や「正義」ということが出って来ます。誰が神様に遣わされた預言者かどうかだと確かめたい時、貧しい人について何を話しているかを聞きます。
「罪」ということを考えると、なにか隠れた、誰も見ていない、個人的なものだと思ってしまいます。しかし一番大きな罪、一番酷い罪は皆が見える罪です。皆が見ているが、誰も直さない罪です。私たちよりも不幸な人が不遇な待遇を受けている時、不公平な取り扱いを受けていることを見ている時、私たちは何をするのかというのは神様の目には、戦争犯罪と同じように大事なものです。
アモス5章の終わりで、神様はイスラエル人の礼拝を拒絶してしまいます。「お前たちの賛美はいらない。捧げものはいらない。集会や音楽はいらない。ただ正義を行うことを求めます。」金曜日の聖句書道で書いていたミカ6章も同じことを言います。「人よ。何が良いことなのか。主が何をあなたに求めておられるのか?それはただ、講義を行い、誠実を愛し、遜ってあなたの神とともに歩むことではないか。」イサヤ1章も同じことを言います。「もう、むなしいささげ物をたずさえて来るな。全をなすことを習い、構成を求め、虐げる物をただし、みなしごのために正しいさべきをなし、やもめのために弁護せよ。」ヤコブ1章も同じことを言います。「父なる神のみ前で、きよく汚れのない宗教は、こうじややもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」
これは私に取って大きなチャレンジです。ここで二つのことが必要だとヤコブが述べています。圧迫された人を助けることとこの世の汚れから守ること。私の母教会で、その後半を大事にします。この世の汚れから自分を守るのは大事です。そしてもし汚れてしまったら、神様に赦していただけます。私の過去の罪も将来の罪もイエスの御名によって赦しがあるのは本当に素晴らしいと思います。神様はその一人子をお与えになったほど赦しの関係を持ちたいという神様の愛を信じます。
そして預言者のメッセージをまとめれば、前半も大事だということです。神様はお兄さんにいじめられた弱い弟のことを気にしています。そして私たちも同じ関心を持たなければなりません。アモス、ミカ、イサヤは皆同じことを固く言っています。もし圧迫された人や貧しい人を気にしないなら、どんな礼拝していても無駄です。神様との契約関係を持つのは個人的なものになりません。どうやって社会を見るかということと関わっています。神様の国は貧しい人、食べ物がない人、希望がない人にが与えたからです。そういう人は神様が特に関心を持つ人です。私たちも同じ関心を持たなければなりません。その関心を持つだけで、本当に神様を心から礼拝できます。
さて、これを全て纏めましょうか。
聖書は人間に手を伸ばし、人間との関係を持ちたい神様の物語です。その関係の中に、従いたくない、逃げたい、神様から隠くれたい時もあります。そのときに、神様は見限りをつけられません。見捨てられません。だからその関係がうまく行かないとき、神様はよい道を教えるために第三者を連れて来られます。聖書で、預言者と呼ばれています。いつもプロの人ではありません。プロは邪魔になることもあります。預言者は神様の注意を聞いて、契約の民に問題を教える仕事があります。その問題の中の非常に大きい問題は人の個人的な生活ではなくて、貧しい人、自分が助けられない人、不公平を受けた人への社会の待遇でした。今でも、私たちの人生の中に大きな問題になるかもしれません。しかしその問題を乗り越えれば、神様の御心を分かち合って、本当に心から礼拝出来ることになります。
「貧しいものは幸いです。神の国はあなた方のものだから。」





