Freely you have been given, freely receive

ただで与えられた、ただで受けなさい

私はクリスチャンになったばっかりの時、高校のHiBAのようなクリスチャンの学生運動の先生、ペーティー先生から弟子訓練を頂きました。日曜日の午後、礼拝が終わってから、我々新しいクリスチャン五人がペーティー先生の家で集まって、ペーティー先生が昼ご飯を出してくださいました。その頃の私はちょっとだけ日本人の性格を持っていたかもしれません。というのは、お返しをしなければならない気もちになりました。だからある日曜日、「次回、何か持ってきましょうか?」と尋ねました。「いや、そうする必要はない」とペーティー先生が答えました。そうしてこう言って説明しました。「新しいクリスチャンは早く与えることを習うものの、受けることも習わなければならない。」

今日のマタイの個所では、イエス様は弟子たちを送り出しています。弟子たち、そして弟子たちの親戚や友達はイエス様から癒しと聖めと教えを受けました。それから弟子たちがイスラエルの失われた羊たちの所へ行って、同じ癒すと聖めと教えを与えに行くことになりました。ただで受けたので、ただで与えるという原理をもって行きました。

この「ただ」と訳された単語はギリシャ語で「贈り物のように」という意味です。英語の聖書では、「フリーリー」、「自由に」と訳されました。この短いセンテンスではイエス様が四つの自由について命じたと思います。「自由」は「遠慮なく」と言う意味があるし、「義務なく」の意味もあります。送り物は遠慮なく義務なく与えられた物です。遠慮なく与えることと義務なく与えることは二つの自由です。そして、裏返して言うならば、遠慮なく受けることと義務なく受けることも二つの自由です。イエス様の御言葉によって、この四つの自由は当然にクリスチャン人生に示されたはずです。四つの自由は深く繋がっていますが、できるだけ別に分けて取り扱えたいと思います。

「遠慮なく与える」というは西洋人にとって従いにくい命令だと思います。西洋の罪はどん欲です。その罪の解決は、全て持っているものが神様から与えられたということを認識するのです。「私の」物をあげることを考えると尻込みます。「私の」お金を献金するのは特に難しい。それだけではなく、「私の」人生を奉仕で捧げるのも西洋人に取っては大変難しいことです。自分の人生だから自分で決めたいのです。これは自分の物と思っているから人に与えません。与えないからそれは自分の物です。悪循環です。この悪循環を断ち切れないと行けません。どうやって断ち切れたらいいでしょうか?

もし自分の物だと考えるよりも神様から与えられた物、受けた物と考えると、与えるのはそんなに難しくなりません。WECの創設者であるスタッド先生は死にかかって、友達と家族は死の床で集まりました。そしてスタッド先生が周りを見て、本当に何もない家を見て、こう言いました。「皆に何か小さな土産をあげたいのですが、大昔全てをイエス様にあげました。」ただで受けたので、ただで与えました。

そして二番目の自由は「義務感なく与える」です。イギリスの教会で、時々献金箱の上に「神は喜んで与える人を愛してくださいます」という御言葉が書かれています。それを見ると、私はいつも逆の思いを感じます。やっぱり献金しないと行けないのですね。それだけではなく、快く献金しないと神様が私を愛してくださらないということを思ってしまいます。つまり、快く与える義務感を感じます。まあ、快く与えるだったら、義務感がないし、義務感があれば快くないので、快く与える義務感はありえないことです!しかしその現金箱の上に書いている御言葉は2コ9:7のある部分しかありません。その一節を全部読むと、こう読みます。「一人一人、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」ああ、それはよかったね。喜んでいないと、与えない方がいいかもしれません。

確かにそうです。大変有名な個所の1コリント13章では、パウロがこう書いていました。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」義務を持って与えるよりも、愛を持って与えるのを神様が望みます。神は喜んで与える人を愛してくださいます。しかし前の2コの次の一節を続けて読むと、「神は、あなたがたを常に全てのことに満ち足りて、すべての良い業にあふれる物とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることの出来る方です。」その与える喜びも神様から与えられた贈り物です。

愛を持って与えることには時々自制が必要です。この間、教会の総会がありました。その総会の一つの話題は、家庭集会で食事が出しすぎたので人が来たくなくなったということでした。そして平塚姉妹がローマ人14章をよみました。そこでは、こうかかれています:「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。」そういう場合では、愛をもって行動するのは与えないという意味です。遠慮なく与える自由がありますが、その自由が兄弟を痛めると与える自由を使わないほうがいいのです。

そして三番目の自由、「遠慮なく受ける」という自由のはもう少し難しいかも知れません。どんなに難しいでしょうか?難しさを理解したいと、テストをしてください。教会でお茶とお菓子が出された時、お菓子の皿をじっと見てください。だれも最後のお菓子を取りません。遠慮の固まりといいますね。もしその遠慮の固まりを取る人いれば、多分私でしょう。私にはあまり受ける遠慮はありません。素晴らしい遠慮なく受ける訓練を受けました。それはペーティー先生のせいかも知れません。XXX

しかし「義務感なく受ける」のはもっと大変なことです。特にこの近江地方でお返しと義理は大変強い概念だと私が感じています。クリスマスの季節でさまざまな宣教師が集まって、日本宣教についてしゃべりました。そこで一人は義理について文句を言いました。「日本人に心からものをしてあげようと思うとき、お返しをもらうと、ちょっと払ってくれたという気があります。そうすると、心からの贈り物になりません。」もう一人の人は「贈り物とお返しの贈り物戦争みたいだ」というたとえをしました。はじめに小さな贈り物をしましたが、お返しはもっと高いやつでした。だから、そのお返しにもう少し高い贈り物を返しました。だんだん続けて、大変なことになりました。

その宣教師の考え方では、お返しは愛より義務の表現でした。実は、義理がもう少し複雑なことだと思います。義理にも愛が含まれています。義理そのものは悪いと言っていません。もちろん何かをもらうと、何か返したいという感情は当然です。そう感じないと相手のことに無関心と言ってもいいのですね。愛と義務はまったく反対ではありません。

しかし愛から返すのと義務から返すのとはまったく反対です。神様の大きな恵みによって、その独り子が私たち罪人のために死んでくださいました。そういう大きな贈り物には全然いつまでも、何をしてもお返しができません。ただ感謝を持ってい受けることだけです。もちろんお返ししたいという感じが出ますが、どうしてもできません。イエス様の死と復活が義理のサイクルを壊しました。しかしわれわれが人間からの恵みを義務感なく、感謝だけで受けられないと、どうやって神様の恵みを義務感なく感謝だけで受けていただけましょうか?

先ほど、「遠慮なく与える」というのは西洋のチャレンジーだといいました。西洋には「ただで受けたから、ただで与えなさい」が大変な命令です。しかし日本では、逆に「ただで与えられたから、ただで受けなさい」というのは必要な訓練かもしれません。友達の宣教師は贈り物のサイクルから逃げられなかったが、イエス様にお返しできないない死と復活が義理のサイクルを壊しました。それはこの近江地方の文化に受けいれにくいことかもしれません。どうやって義務感なく、感謝を持って、失礼なれないで受けることがでくるのは一人一人で習うべきことだと思います。

外国人としてよくわからないので、はっきり言うことから恐縮しますが、義理、義務のサイクルは実は恐れのサイクルだと思っています。人から失礼な人間だと思われたくないので、いやいやながら、義務を感じて行動しているのはやっぱり人の恐れです。第1ヨハネではこう書かれています。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れは刑罰が伴っているからです。」本当に愛をもって与えられたことを愛を持って受ければ、恐れはありません。義務もありません。子供のように、感謝を持っていただくことになります。

クリスチャンとして四つの自由を持っています。兄弟が心を痛められないぐらい、遠慮なく与える自由があります。そして、義務感なく、神様が下さった心の愛によって与える自由があります。遠慮なく受ける自由と義務感なく受ける自由もあります。ただで与えたから、ただで受けなさい。」

Passage: 
Matthew 10:8

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