Beginning to walk

昨年から、出エジプト記から初めてイスラエル人の奴隷の苦しみ、モーセの生涯、そして神様の過ぎ越し祭りについて読みました。イスラエル人は外国にいって、大変厳しい奴隷生活を経験しました。ある時はいつの日か神様が解放するという希望を持ち、ある時は助けがぜったい来ないと思っていました。

そんな時モーセという人が奇跡的に救われ、エジプトの王宮で育てられました。イスラエルの不公平な状況を見たモーセの心は燃えていました。しかし、その正義の情熱を正しく現せなかったので、ミデヤンに逃げなければなりませんでした。そこで神様と出会いました。神様は必ずイスラエル人を助けると約束したのに、イスラエル人が神様のことを信じませんでした。モーセも神様を信じなくて神様と戦ったこともありました。

しかし神様は必ずイスラエル人を解放すると約束し、10回エジプト人に災いを起こしました。今回はやっとイスラエル人が異国のエジプトから海を渡って解放されるところです。

私も今週、異国から海を渡るつもりですが、その意味で今日の個所を選んだ訳ではありません。イスラエル人は400年間大変苦しい奴隷生活をしましたが、私は本当に素晴らしい2年間をこの愛する長浜で過ごしました。そして皆さんの暖かい応援と励ましをいただいて感謝しています。特に新しいことを使ようとした時、皆さんが一所懸命助けてくれたことを感謝します。2008年9月のリーダーシップセミナーは初めて日本語での講演でした。2008年のクリスマスで初めてクリスマスの料理を造ろうとした時、さまざまな人が進んで助けてくれました。この間の婚約式も有る意味教会にとってかなり大きいな冒険でした。そして私たち二人は大変迷惑をかけたことをゆるしてくださったことも本当に感謝します。新しい試みでしたが、本当に想像出来たよりうまくいきました。また米原伝道、米原リバイブも行いました。それは正直言えば思ったどうりに進みませんでしたがそれは誰のせいでもなくて、私の計画が楽観的すぎたからかもしりません。うまく行ったこともあったし、そんなにうまくいかなかったこともありました。

しかし残念な思いはあまりありません。私は、大きな計画を立てて、それを試みるのが大好きです。そうするとたくさん失敗することもあるかもしりませんが、「やってみる」ということは本当に大事だと分かります。やってみること、リスクを引き受けることは失敗しても学ぶことが多いと思います。いつも失敗の恐れでリスクをさけたら、結局なにも学べないのではないか。

今日の個所では、イスラエル人はリスクを引き受けることを学んだの話しです。パロから逃げるに大変なリスクがありました。パロの軍隊に捕まえられて殺されるリスクです。パロの軍隊は優秀な馬車戦車600台があって、軍事訓練を受けた兵士、武器がありました。イスラエル人は奴隷で、労働で疲れて、武器はなにも持っていませんでした。そういうような人間的な評価を乗り越えて見えない神様の約束に頼るのは本当に命がけのリスクです。

しかし神様はもう既に十分彼の支えを示したのでしょうか?神様はイスラエル人の前に色々な奇跡を起こして、十回災いをエジプト人にかけました。まあ、一つの奇跡を見たら神様を信じるのでしょう。しかし神様はイスラエル人がこれから立ち向かうリスクの大きさをよくご存知で、何回も何回もイスラエル人に彼の力を示しでくださいました。だからこの解放は神様の計画だと分かったはずですね。出エジプト記4章で、神様は奇跡の印を通してイスラエル人を解放しようとしました。そして6章にも「私は必ず私の契約を守る」と言いました。12章に、神様はもう一回「私は約束をしました」と言いました。神様の約束、神様の計画を十分知ったはずです。

イスラエル人は自分たちのために、神様がこれまで行った計画を理解し、最後の一歩は自分たちで踏み出す必要がありました。その命がけのリスク、すなわち神様を信じる信仰を持たなかったら、エジプトから脱出できなかったかも知りません。面白いですね?神様はイスラエル人を救うために色々な素晴らしい奇跡を行いましたが、解放のためには、最後はイスラエル人自らが最後の一歩を踏み出さなければなりませんでした。神様は私たちを助けてくださりますが、全部をやってくださるわけではありません。私たちも神様に与えられた自分の役目を務めなければなりません。神様の言葉を信じて実行するということは「信仰」と呼びます。ヤコブの手紙では、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだ者です」と書いてあります。イスラエル人は神様の言葉を十分聞きましたが、実行するという信仰の印がたりませんでした。ヘブライ人への手紙で信仰は「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させる者です。」と定義されています。まだ結果が見えないけど望みを持って、最後まで分からなくても、頑張ってやってみるということですね。

皆さんはもうすでにそういうような信仰をお持ちだと思います。クリスチャンになることは信仰の一歩を踏み出さなければならないことです。私はクリスチャンになった時、神様が私の人生をどこまで導いてくれるか全く分かりませんでした。実を言えば、キリスト教のことをそんなに深く分からずに神様に信じると決断しました。それにはリスクがいっぱいありました。しかし神様は信頼出来る方だと分かり、何があっても彼に頼れると思い決断しました。

来月私はイギリスで結婚する予定です。それも信仰の一歩ではないでしょうか。有る意味で、大きなリスクですね。将来何が起こるか分からなくても、ただこれからヘンリエッターと一緒にいたいと思って結婚を決めました。

また、クリスチャンとして行う伝道や奉仕もリスクの内の一つですね。相手はどう思うと分かりません。失敗するかも分かりません。しかし教会が神様を信じてリスクに立ち向かわないと、前には進みません。

この二年間の日本での生活、日本は非常に完璧主義社会だと改めて分かりました。一度バスに乗り遅れたら、もうだめです。失敗したら、ダメな人間になってしまいます。そしてこの社会の傾向は教会にも当てはまる部分があると思います。神様が私たちの失敗を赦すと信じながら、自分が自分の失敗を赦さないことが多いと思います。又は、神様に赦されても、周りの人はどう考えるかと悩んで、失敗を恐れ手を出すことをやめてしまいます。しかし、教会は完璧主義の社会ではありません!教会は基本的に罪人の集まりですので、他の人の失敗を批判できません。神様に赦された私たちの価値は成功や失敗に定められたわけではありません。私たちはすでに神様に受け入れられて、神様の子供と呼ばれて、神様の国の市民です。この完璧主義社会である日本の中で、教会は自由の象徴であるべきです。神様に赦されて、聖霊を頂いた私たちは自由と勇気と恵みと赦しの象徴で、そういうことが全くない日本に、そういうことが絶対必要な日本に、教会が輝くその模範になるべきではないでしょうか。でもそうではない場合もあります。悲しいと思いませんか?信仰というのは神様に全てを任せるということではなくて、未来が分からなくても失敗するかもしれないと思われても、神様を信じて、そして頼って前進するものではないでしょうか。

この間、アメリカのバイオレットちゃんのビデオを見ました。光陰矢の如し、バイレットちゃんはもう既に歩き始めていました。歩き始めると絶対倒れます。一度も倒れることなく歩き始めた人はいないと思います。なぜかというと、歩くと言う動作は、続けて倒れようとする動作だからです!しかしバイオレットちゃんが歩きはめるために、倒れる恐れ、つまり失敗する恐れを乗り越えなければなりませんでした。今日の個所のイスラエル人も、パロの軍隊を立ち向かっていた時、同じ恐れを乗り越えなければなりませんでした。どうやって出来ましたのか?

私が見たバイオレットちゃんのビデオでは、ベラさんはおもちゃを持ていて、バイオレットちゃんを向かいました。そしてバイオレットちゃんの倒れそうな一歩一歩を励ましていました。倒れていも、愛する、信頼するお母さんの抱いている腕に倒れます。そして一歩できてすぐに倒れたら、ベラさんはその一歩を友に喜びました。歩き始める赤ちゃんが倒れたら、厳しい顔をして「この赤ちゃんダメ」という両親は一人もいないと思います。受け入れの環境、失敗してもいいという環境を造るは親の仕事ではないでしょうか。父なる神様、私たちの本当の霊的な親はイスラエル人に同じことをしました。モーセは彼らに言った、「主の救いを見なさい。」神様が持っている望みをじっと見て歩き始めなさいということです。神様はもうすでに彼の計画を明らかにして、もう既にイスラエル人を愛を示しました。イスラエル人は神様に信頼出来るとよく分かっています。だから神様に目を付けて海を渡って歩き始まりました。

聖書ではもう一人は同じような状況で登場します。危険のときを立ち向かって神様をじっと見て歩き始めた人です。それはマタイ14章のペテロの話しです。ペテロはイエス様が水の上に歩いたということを見ました。大変荒しいガリラヤ湖の上にイエス様がいつものように歩きました。そしてペテロはこれを見て、かっこいいな、俺もしたいなと思って船から出ました。そしてイエス様をじっと見て、歩き始めました。ペテロは本当に水の上に歩きました!どんな旧約聖書の預言者もしたことないことをしました。しかしイエス様から目を離しました。風と嵐を覚えて、やっぱり人間は水の上に歩けないと覚えて倒れました。倒れてとイエス様は彼を抱いて「なぜ信じなかったか?」と聞きました。なぜ信じなかったのか?イエス様がいましたのに。ペテロがよく知った、力あるイエス様がいましたのに。ペテロを受け入れたイエス様が今したのに信じませんでした。ペテロは風と嵐を覚えて自分がしようとすることが無理だと思いました。しかしイエス様は彼を抱いて、励まして、一緒に船まで歩いて帰りました。倒れたからやめたということではありませんでした。イエス様は彼をしっかりさせてもう一度歩けるように助けました。

イスラエル人もパロの兵士を見て自分がしようとすることが無理だと思いました。しかし神様はモーセを通して皆を応援しました。皆が問題に集中していたが、神様が「私に集中しなさい」と言いまして、もう一度進んで行けるように助けました。

クリスチャン生活もそうです。教会活動もそうです。私たちは福音のために何でも試みて、何でもやってみて、失敗しても歩き始めるはずですね。皆さんが私の証をよくご存知であると思います。大学に入った時、私はクリスチャンでしたが、段々バクサイドをしました。女性と遊んだり、お酒で酔ったりしました。本当に放蕩息子の生活をしました。そして結局正気に戻ってどうしたらいいかと思いました。一度失敗してこれからダメなクリスチャンになりますので、クリスチャンをやめるはずですか?絶対そのことありません!倒れたら神様の許しを頂いて、立ち上げてもう一度歩き始まるはずでした。失敗があるからこそ許しがあります。

でも神様の許しを頂いても、自分自身を赦すことは大変でした。神様が本当に私をそのまま受け入れているということを習うのは長時間かかりました。今でも、私は急がしすぎるという傾向があります。それはなぜかというよく考えると、多分、たくさんのことをうまく出来れば、神様から誉れてもらうかな、又は他の人からほめてもらうかなと無意識的に考えているからだと思います。

日本でも自分の価値が自分がうまくできたことによって定めると思っている人は多くあると思います。だから、何をしようとして失敗すると自分の価値が下がると思ってしまいます。その恐れで、リスクを拒否します。しかし神様は私たちの成長のためにリスクを立ち向かえる機会を与えてくださいます。イスラエル人に最後の解放をしてくれませんでした。イスラエル人が自ら神様を信じて自ら歩き始めなければなりませんでした。信仰の成長のために、リスクを引き受けて失敗の恐れを乗り越えるのは神様の計画でした。そういうようにリスクを立ち向かえないと、信仰は全然強くなりません。悪く言えば、もしバオレットちゃんが倒れの恐れでいつもベラさんに抱いて持って行ってもらったら、全然あるきません。私たちも信仰の足を踏み出さないと、神様に頼る信仰は成長しません。しかしリスクを立ち向かえるために、神様が私たちをこのまま受け入れているということをちゃんと理解しないと行けません。イスラエル人が神様の印と奇跡と約束を経験したと同じように、ペテロがイエス様を知って彼をじっと見たように、バイオレットちゃんがベラをじっと見たように、私たちは神様の御言葉と約束をいつも覚えて頼って歩き始まれます。たとえば、「私たちはまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださった」。素晴らしいですね。私たちの価値は神様に喜ばす色々なことを一所懸命するからではなく、神様がもう既に私たちを愛したからです。そして「主の哀れみは朝毎に新しい」。失敗しても、許しを貰ったら、明日、神様が同じ愛を持つという約束です。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」素晴らしい約束ですね。そういう約束を信じたら何でもやってみてもいいではないか。神様のために何しても、恐れはいれません。倒れても、失敗していも、罪を犯しても、神様の愛は変わらないというですから。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」どんなリスクを向かってもイエス様が一緒に入るから乗り越えるという約束です。

今日の個所も神様は約束をもってイスラエル人を応援しています。「きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。」神様の応援の言葉を頂いて、神様の力を理解して、神様から目を離さないで、イスラエル人は歩き始まりました。私たちも、クリスチャンとして、教会として、神様の約束と受け入れと愛に囲まれて、何をやってみても、失敗の恐れはいりません。失敗するかも分かりません。うまくならないかも知りません。しかし恐れはいりません。失敗してもダメな人間になりません。神様は私たちの信仰の成長を願っています。そのために、神様が私たちにリスクを向かう機会を与えてくれます。だから、「強くあれ、雄々しくあれ。」試みましょう。やってみましょう。恐れないで失敗しましょう。その失敗を通して学びましょう。神様をじっと見て歩き始めましょう。

Passage: 
Exodus 14:5-14